制作コンセプトについてあれこれつらつらと
「星の肖像画」
※これはこれまでに刊行した何冊かのイラスト集同人誌に掲載した文章をまとめて加筆し修正した、制作について日々考えるあれこれを綴った随筆です。
画家として「何を使って、何を描くか」が重要な課題だ。私が題材にする「自然の風景画」またはそれを元に再構築した「空想世界の背景画」を、「コード(プログラミング)」で描くという制作手法について記述する。
絵画を描く手法は時代の技術力とともに変化してきた。美術品は技術力の歴史資料であり写し鏡でもある。
現代、コンピューターも画材である。であるならプログラミングも画材になるのではないかというのが私の制作題目であり検証である。コンピューターで絵を描く手段として様々な企業や団体がソフトウェアを提供している。ペイント、画像処理、3DCGと様々だが概ね共通しているのは、そのどれもが開発者によってGUI(グラフィックユーザーインターフェイス)で機能を整備されている事だ。
私は大学で日本画学科を専攻していた。道具、画材を一から作る方法を学んだ。時に道具は必要ならば自分で改良し生み出していくものだと学んだ。これまで先人たちもそうしてきた。しかし、ソフトウェアはどうかというと、それは堅牢なブラックボックスである。 GUIはコンピューターの知識に明るくないものもその使用を手助けしてくれる素晴らしいものではある。その代わり整備された分ユーザーはその機能制限の中でしか動けないということでもある。ジェネラティブアートとクリエイティブコーディングは、このブラックボックスをこじ開ける鍵になってくれる。
ジェネラティブアートとは生成する芸術。数学における生成の概念「対象と条件をもって構成物を求める」。これをプログラミングのアルゴリズムで実践し、かつそれをアートとして作品を制作する。数理科学と芸術を直接結びつける事ができる形式である。
クリエイティブコーディングとはコード(プログラミング)を創造の手法にすることである。コードにできる事で作品を作る。その形態は、グラフィック、サウンド、立体造形、電子機器など様々である。こうして作品を作る人達をクリエイティブコーダーと呼ぶ。
これらは主にオープンソース(※1)のソフトウェアやライブラリを使って作られる。
ところで私は大のゲーム好きで数学好きでもある。2歳頃から絵を描き続けているが描くものは動植物や空や雲や山や近所の川の水流、そこにいつもいる野鳥を描くのが好きだった。自然の中にある一見不規則に見えて実は美しい規則性を持つ数学的形態に見惚れてやまなかった。中学一年生の頃、初めてビデオゲームを遊んだ。この体験で世界がひっくり返った。「絵画の中で遊んでいる」しかも「絵画が何やら数学的な手法で描写されているらしいことが伺える」。ここからありとあらゆるゲームを古いものから新しいものまで遊んでまわり、その制作手法を考察することに時間を費やした。いつかゲーム業界で絵を描きたいとも考えていたが結局ゲーム業界で働くことにはならなかったので詳しくはわからないが、ゲーム制作で「プログラムを組む人」と「絵を描く人」は別々であり同じ人が担当することはない。なのでとりあえず絵を描くことに注力していたのだが、大学2年生の時にある先生の助言でプログラミングを始めた。 C言語のOpenGLだった。それからずっとプログラミングの面白さに夢中である。何ということか「数学で絵が描ける」。それからというもの「筆」と「コード」両方を使って絵を描く方法を画策し続けている。つまり「数学が好きなのでCGをソースコードの段階から手を出して絵を描きたいがソフトウェアが製品でありその中身の構造も秘匿されているのでオープンソースのソフトウェアの中身を調べ尽くして遊びたい」ということだ。
※1 オープンソース:ソフトウェアを構成しているプログラム「ソースコード」が無償で一般公開されている形式。また利用目的を問わずソースコードの使用、調査、修正、拡張、再配布ができる。
上記で述べたことからコンピューターという画材との距離を感じている。だがそれはコンピューターに限った話ではない。水彩、油絵の具、アクリル、パステルなど、他の画材全般に対しても、コンピュータほどではないが少なからず距離を感じる。なぜそう感じるのか。
まず画材店で購入する。蓋を開けて触ってみたり匂いを嗅いでみたり試しに紙に塗りたくったり、水をまぜたり。でもまだなんだかよくわかない。この画材って水につけても大丈夫?何でできてるの?そうして使い始めるまでにその画材の特性について何冊か本を開きインターネットでも情報を集めることになる。
物を作ることを生業としその腕を磨くのならば最初から最後まで必要な研鑽は使う素材と道具の理解、そして自分自身でそれを改良し続けることである。
人間には知識を次の世代へと渡し続けるという、情報を時を越えて未来に渡す能力がある。そうして知識を後の世代へ渡し続ける人間の研鑽の時間が石を積むように年々、一段一段と増え続けることは蓄えられた知の総量も同じように増えていくのと同義である。道具や素材の研究は日々ますます進む。化学が発展して以降、色材もさまざまな合成物が誕生し絵の具の発色の経年劣化の悩みはほぼなくなったしそんな悩みがあったことすら忘却の彼方となった。岩絵具で最も美しく高価な群青色の材料の藍銅鉱、この石は湿度が高いと酸化して緑青という色の孔雀石に変化してしまう。昔は画家が所属する工房の仕事の一部に絵の具作りも含まれていたが今では完全な分業。絵の具の品質維持を考えたらそのほうが合理的だが、理解を深める機会はかなり少なくなった。
素材への理解は増え続けているはずであるのに理解量が増えることでむしろその理解量がそのまま道具との距離になり遠ざかるという皮肉な現象が起こる。増えた知識を記した本を一冊一冊と自分と素材(道具)との間に並べると、本は定規のメモリのごとく並びそれがそのまま距離となる。これが画材との距離を感じる原因の1つだ。本は様々な異なる言語や専門用語で書かれておりそれを読み解くのにも実践するのにも翻訳家や専門分野の研究者やら職人やら人手がたくさん必要になってくる。通信も流通も発達した現代で1人の人間だけで製造から実用まで完結する道具はほぼないのではないだろうか。
その定規のメモリがとんでもない長さに伸び続けているのがコンピューターだ。大人の科学マガジンの4bitマイコンや電子ブロックで遊んだ時はコンピューターは手の中に収まる小さな友達であった気がするのに。6×8マスに限られた少ない個数の電子ブロックの回路部品を工夫してはめ込んでいた時とはもう違う、億の単位まで増えたトランジスタの数。それを包む箱は今では何重にも秘匿で覆われたブラックボックス。数理科学と美術の距離はますます遠くなるばかり。
だが大量印刷の時代から液晶モニターの時代へ、CG(コンピューターグラフィック)全盛期になったことでおもしろいことが起こる。絵と数学との再会だ。
CG、それを作るプログラム、アルゴリズムは膨大な数理科学の知識を総動員して作られている。ユーザーがそのソフトウェアの中身を窺い知る機会を得られるなら、また一方的にプログラマーの設計した技術を享受するだけの構図でなくなれば、数理科学と美術は一緒にやっていける。オープンソースのクリエイティブコーディングの界隈では、SNSが生まれたことで芸術家と多くの現役のエンジニアの双方に加えまったく別の世界の多種多様な人たちが一同に喫茶店に集まりお互いの価値観や見解を気安く談笑し合うようなことがなされている。今、ソフトウェアエンジニアと画家が最も近い距離にいる分野の1つだと思われる。
ではそのオープンソースのCGソフトウェアをコードから動かすことによって新たにできるようになった事は何か。わたしの場合、それは序文で述べた通り数学的手法で被写体を観察、分析、描写する手段が増えたことだ。
ジェネラティブアート、クリエイティブコーディングの手法にもいくつか分類がある。わたしの制作はその中の「自然現象のシュミレーション」にあたる。私にとってコンピューターとはコンパスと定規の上位互換である。自然現象を数学的に分析してそれを描き記そうとした時に壁になるのは計算量と線を引く作業の膨大さだ。例えば可愛らしい花をたくさん咲かせるある樹木を一本、数学的にその生育規則と形状を解析し計算し描写、となるとその作業量は人間1人の手に負えるものではない。理論は出来上がってるのに、時間と人手不足がその実践を難しくする。それを可能にする補助をしてくれるのが、コンピューターの演算能力だ。被写体の軌跡をアルゴリズムに置き換えて考察する。
未来に情報を渡せるのも人間の能力であるが、逆に過去を遡って情報を掬い上げる事ができるのも人間の能力である。
美術と向き合う多くの人間が悩むことになる「美術とは何か」という問いについて、個人的見解を述べるとそれは「人間が得たあらゆる記録技術をもってしても記録保存が不可能な『何か』を記録するための最終手段媒体」である。この「何か」とは人間が生きていく為に必要な衣食住以外の何かである。言ってしまえば、暇つぶし、生きがい、心の支え、救い、気晴らし、溜まった念の吐き出し口。記録保存と述べたがリアルタイムでの情報伝達手段の役割もある事を追加で書き足しておく。言語、文章、図式、音声etcの人間の標準コミュニケーションツールや能力で伝達不可能な何か。記録保存も情報伝達に時間軸の次元が追加強化されたものだと考えれば結局は情報伝達手段ということになるかもしれない。実際、宗教美術は文字の読み書きができない下流階級への宗教の物語や歴史の普及も目的であった。
数学というのは自然とのコミュニケーション言語である。地球は動植物、鉱石、水波、森、空の色、雲などの造形物を山ほど作り上げてきたが、自らはそれを記録する術を持たない。例えば途方もない遺伝子の進化を積み重ねて美しく咲いた花も1つの季節で枯れて消える。
地球が誕生して46億年、きっとすでに消えてしまったものは数えきれないほどあるだろう。地球(星々)はカメラもそのシャッターボタンを押す指も持たない。「若く美しい時間をできるだけ残しておきたいの」とうら若き時間を精一杯生きる女性のような心が宇宙の星々にあるかなどと考えるのはあまりに感傷的で人間本位すぎる尺度である。星々が自ら本棚からアルバムを引っ張り出してきて「見て見て、若い頃のわたし結構イケてたでしょ?」なんてむこうから生き様を自慢してくれたら楽だったが生憎そうはいかないので、こちらから数学という言語で母なる地球、宇宙に「若いころどうだったの?」というふうに尋ねる必要がある。人間は星の過去の記憶を読み解く術を得つつある。星々からしたらもしかしたら余計なお世話かもしれない。
皮肉なのは、情報を記録する手段と造形物をそれに込められた情報ごと破壊する手段と両方持っているのが人間のみであるということだ。(この宇宙に人間の他に知的生命体がいるかどうかはその存在が確かに立証されない内は一端、他所へ置いておく)しかも、その記録と破壊の両方を現在同時に行い続けているのだから頭を抱えるしかない。発色の優れた絵の具や、私自身が大学で専攻した日本画の岩絵具の色材は天然の鉱物を砕いて粉にする。この星の文字通り努力の結晶で生まれた石を砕いてその星の努力の美しさを描くのだ。壊したものの美しさを壊したもので描いている。これを埋もれた輝きを発掘して日の目に当てていると捉えるべきかただ消費しているだけととるべきか。これが葛藤というものだ。コンピューターを作るのにも今どれだけの資源問題、製造過程での問題があるかはインターネットで検索すれば山のように記事が返ってくる。
大昔から擬人化というのは廃れないジャンルだなとしみじみ思う。例えば人の姿をした太陽神は世界各地に存在する。フィリップ・K・ディック著の「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」の作中で、人間と機械(アンドロイド)の違いを見分けるのは「共感、感情移入能力」にあると述べられている。”ある程度の知能が生物種に存在するのに対して、感情移入能力は人間社会だけにしかないものらしい”(本文より抜粋)。自分以外の生物の感情を自分のもののように感じ取る能力。人間というのは感情の共感、共有ができなくなると孤独と不安に苛まれる生物らしい。わたしが思うに擬人化とは人ならざるものへの共感を助けてくれる手段として使われてきたのではないだろうか。羊の考えていることはわからないけど、自分と同じ人間の姿をしているものが考えていることに共感しようとする努力はできるかも、と人間は考える。人の姿をした自然の神々は自然のことを少しでも共感能力を使って理解したいと願う大昔の人々の歩み寄りの努力の姿なのではないだろうか。数学や物理や科学といった能力を得た現代では、自然現象と情報をやりとりするのに自然が人の姿(神)をとる必要がなくなったのかもしれない。大好きなゲームの1つであるスーパーマリオギャラクシー(任天堂wii2007年)に登場するチコという名前の星の子のキャラクターは大変可愛らしかった。成長すると惑星となる星の子たちは人の姿はしていないがこちらと会話が出来る。同じ言語を使い会話が出来るだけで、その生き物の機微を感じ取りたいと思うようになるものだった。
目に見える姿形で現れる幾何学的形状だけでは被写体を描き切るのには足りない。人物の肖像画を描くときその被写体の過去の行動の足跡、軌跡を考える必要があるように、自然を被写体として肖像を描く場合もその姿に至るまでの軌跡を推測する必要がある。
それなりに生きると努力が報われないのも、その努力が誰にも気づかれないのも虚しいことだと社会生活に揉まれる大人は特に身に染みる機会もあるのではないだろうか。これまでの制作のまとめとしてこの文章を今書いているように、なんらかの形に残しておけたら少し気が晴れるように思う。
1822年にはじめて恐竜という存在として認知され名付けられた太古の生き物たちは1億6千万年も続いたその種が終わる時、何を思っただろうかなどとはやはりこれも人間本位すぎる思考である。しかし、哲学で言えば「認知しないものは存在しない」。掘り起こされるまで恐竜たちはこの宇宙から確かにその存在は消失していた。きっと毎日命懸けで草原を走り海を泳ぎ空を飛び弱肉強食の闘いを繰り広げていただろうに。
上流階級たちが自らの肖像画を描かせる為に画家を雇ったように地球が自らの肖像画を描かせる為に人間を生み出したというような神話的な妄想をするなら多くの学者や探検家や写真家たちなどの研鑽によってそれは達成されつつあるかもしれないが、破壊までセットでついてきてしまったのは大失敗の試みだったかもしれない。
わたしが描くのは自然風景画であるが、被写体の過去に思いを馳せてそこから掬い上げたものに共感を試みそれを現在と混在させて描くのならば、風景画と呼ばずに、あえて星の肖像画と呼び変えたい。
美術と向き合うためにコンピューターという画材に向き合ってみる。コンピューターという画材が生まれたおかげで描くことが可能になったものは何かを考えてみる。コンピューターを使って理解を深めることができるようになったものは何かを考えてみる。そうして考えてその中で私に1番性に合うこと、できることはいまのところ数学と美術の距離を今一度縮めること、数学という言語で星の記憶を辿ってその肖像を書き留めておくことである。たかだか個人活動の画家であるから大学の研究室のような、企業の事業のような、大規模な研究などできないし私よりもずっと優秀にそれを成し遂げる学者がたくさんいるだろう。だが広く詳細な図鑑を作るのに人手はあればあるほどいいと思うので、自分にできるのは幼い子供の頃の私の心を楽しませてくれたわたしの暮らすその隣にある声無き物たちの何気ない日常をかきとめその過去に思いを馳せて、ほんの少しだけ何かを掬い上げることができたらと願うぐらいだが。
ここまで長々と随筆を書いたが、清少納言が枕草子に書き記した四季の情景がありし日のアルバムの中の世界になりつつあるいまの時代ではあるが自分が描きたいものはそんな大仰なものではない。星の肖像画などと書くとあんまりにも規模が大それている気がして恥ずかしくなる。もしも私の住む星が小さな王子様が暮らしたような一軒の家よりほんの少し大きいぐらいでしかない、毎日星中を見回ってバオバブの根っこ退治をして過ごし、ほんの数歩だけ椅子を動かせばいつでも見たい時に夕日が見られるくらいの大きさだったらもう少し堂々と言えたかもしれない。自分の目と手の届く範囲の物しか描くことはできないので。
2024/9/10修正